「直感」ではなく「直観」で動くと毎日が変わる

朝6時。寝惚け眼の布団で書いている。頭のリフレッシュのために書いているので文章力のなさは悪しからず。

「直感」と「直観」の違い

まず初めに「直観」という言葉を普段から使っている人はどれくらいいるだろうか?
きっとほとんどいないと思う。僕自身干支2回り分は社会に揉まれてきたが使った試しがなかった。

辞書を引いてみよう。

直感

推理を用いず、直接的に対象をとらえること

直観

推理や考察によるのでなく、感覚によって物事をとらえること

大辞泉より

なるほど。論理的に推測して物事を捉えるのではないという点では共通した概念であると言えるだろう。では、どのような点が認識の違いなのか。この点をはっきりと説明できるだけで日頃のもののとを考える際のマインドが大きく変わる。実際僕自身が変われたので今回はそれを皆さんに伝えたいと思う。

なんとなくで感じとる直感

なんとなくで感じとる直感

「直感」から考えよう。直感に使われている「感」という字。これは何かを感じ取るという感覚全体の事を表す際に用いられる漢字だ。例えば、太陽が出てきて何となく暑いなと思う時や、何となく「この場所は自分にとって居心地が良いな」などがまさに「直感」である。

重要なのは何となく感じ取っているということ。五感の情報から今までの経験則、体験則から何となくを導き出して感じ取っている状態が「直感」である。

物事の本質を見極めて捉える直観

では、「直観」はどのような時に用いられているのだろうか?直観に使われている「観」という字は何かを観ること、即ち視覚情報から物事を感じ取ろうとすることが前提にある。
仏教では直観は心の目で物事の本質を見抜くこととも書かれている。第六感だ。(スピリチュアルな話をするつもりはないのでここらへんにしておこう。)

直観は哲学や論理学で真理を直観するというような表現で多用される。では、哲学的な視点で見てみよう。

スピノザが語った最高の認識のあり方とは?

スピノザが語った最高の認識のあり方とは?

僕の好きな哲学者にスピノザがいる。オランダの哲学者で「エティカ」などの著書をいくつも出している。

スピノザはあらゆる感覚や経験的認識、論理的思考すら超えて真理の全体を一挙に把握する最高の認識のあり方であると定義している。

僕が生まれる遥か昔にこの考え方に行き着けるスピノザ。流石としか言いようがない。

大切なのは山とスパイス

大切なのは山とスパイス

僕が学生時代に心血を注いでいた剣道にも「遠山の目付」という言葉がある。山を見通すように俯瞰して相手を観ることで、直観で相手の「起こり」が理解できるということだ。

貴方の生活に置き換えてみよう。貴方は自分が直感で感じ取れているという部分について考えたことがあるだろうか?

「人より季節の変化に敏感」
「相手の食事のマナーがきになる」

普段私何が直感で捉えていると思いがちな部分。実は直観で感じ取っているのかもしれない。

なぜなら「情報」によって事前に知識を蓄えてそこから考察しているからだ。

本当の直感は人間の本能的な部分だと思う。(やかんが熱いと反射で手を仰け反らせてしまうなど)

僕が思うに、直観は「情報」を蓄えることによって成長させることができるのである。

語学に詳しくなければ平安時代の人々が思いを馳せた季節の変わり目に気づくことはできないだろう。また、礼節を知らなければ相手がマナーを犯していても感じ取ることもできない。

要するに日々の知識の積み重ね、経験則の積み重ねが「直観」を作り上げるのである。

僕はこれを”スパイス”と呼んでいる。皆さんも日々の生活に1スパイス入れることと、直観で物事を観ることを念頭において生活を送るとより豊かな生活を送れるかもしれない。